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海外写真集・旅行記OVERSEAS TRIP





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極東ロシア (Far East of Russia)

 
 (旧)ソビエト連邦は1917年に社会主義革命が起こり誕生。重工業を発展させ,第2次世界大戦後,アメリカ合衆国と並ぶ超大国となった。東西冷戦の時代を経て,1991年12月のソビエト連邦の崩壊,CISの創立によりロシア連邦が成立。それまでの社会主義とは正反対の市場経済主義を取り入れ,西側諸国との協調路線を歩むようになった。

 計画から2年を経た2003年夏,「空路2時間のヨーロッパへ」をキャッチコピーに掲げ,オフィス弾丸急行により,ロシア極東の玄関口であるウラジオストク及びその周辺への旅行が企画されました。


(2003年記)

ウラジオストク(Vladivostok

 
 ウラジオストクは人口約70万人。ウラジオストクとは,ヴラディ=支配せよ,ボストーク=東方,つまり東方地域を支配せよとロシア皇帝が命じたことに由来する。1860年にこの地に上陸,国境警備隊所が設立されて以降,極東最大の港湾都市として発展してきた。

第2次世界大戦後は軍事的理由により「閉鎖都市」となり,ソビエト国民でさえもこの都市への訪問が制限されていた。1989年にソ連国民に開放,1992年に外国人に開放された。
 
ウラジオストク航空機(TU-154)
ラジオストク空港に駐機中のウラジオストク航空のツボレフ(TU-154)。2000年の訪朝時に利用した高麗航空機材と同機種。B737と同じ中央アイルの3列3列シート仕様だが,ラッゲージスペースは意外と狭い。離陸時の独特の金属音が忘れられない。
ウラジオストク空港ターミナル風景
小ぢんまりしているも,国内線と国際線とのターミナルに分かれている。駐機中の航空機材のほとんどがツボレフ,イリューシン等の旧ソ連製。中にエアバス機も発見。午後7時30分過ぎの到着だが,空はこのように明るく,これから夕方という感じ。 
 
ツボレフ(TU-154)機内の様子
関西空港とウラジオストク間は2時間足らずのフライト。この間,お手ふきとキャンディーのサービスに始まり,スナックとドリンクサービス,ホットミールに続き食後の飲み物のサービスとと乗務員は大忙しの様子。2時間以内のフライトでホットミールサービスは以外であった。
ツボレフ(TU-154)機材のキリル文字
帰りのフライトで最前列の非常口座席に運良く座りました。ロシア語と英語で非常口とその開け方を書いてあります。200人弱乗りの航空機材に通常のドア4枚に加え,この様な非常口が数箇所もありました。危機管理が出来ているというか,危機の頻度が高いのか・・・。
 
ウラジオストク市内と不凍港の金角湾
鷲の巣展望台から望む。ウラジオストクが坂の街であることがお分かり頂けます。写真中央の金角湾に現役の軍艦が浮かぶ。写真左に湾は続き,商港に漁港に利用されている。この湾が名高い天然不凍港ですが,厳寒期はこの沖が凍る為,朝夕に砕氷船が凍りかけた海を砕いて港を維持するらしい。
ウラジオストクの街並み
ウラジオストク中央駅前を通るヴェルフネバルトーヴァヤ通りの風景。古い街並みと色使いがたいそう美しい。この手の古い建物は定期的に外装を新たにしないと薄汚れた感じになってくるのであろう。この日も,外回りを修理,塗装している光景を見かけました。古い建物の維持にはお金がかかるものです。
 
ウラジオストクの目抜き通り
駅前を通るヴェルフネバルトーヴァヤ通りと目抜き通りのスヴェトランスカヤ通りとの交差点付近。この少々向こう側右に中央広場が広がる正にウラジオストクの中心地。沿海州州庁舎,ウラジオストク市庁舎や中央郵便局等の公共施設もこの付近に集中する。架線は路面を走るトラムのもの。その他の電線などは地上に全くない。 
坂の街ウラジオストク
スヴェトランスカヤ通りからオケヤンスキー通りを望む。ここは信号がない交差点。写真中央,黄色の服を着た警官が交通整理をしている。オケヤンスキー通りはここから急な坂道を登っていく。坂が多く,路面電車が走るウラジオストク市は,東洋のサンフランシスコとも呼ばれる。ちなみに私見であるが,ここはもはや東洋ではない。
 
ウラジオストク中心部の様子と車事情
再び美しい駅前を通るヴェルフネバルトーヴァヤ通りの様子。多くの車が行き来するが,写真のごとく約98%が日本車。有名な5万円の手荷物扱いの車ばかりでなく,200万円以上の人気最新中古車や新車(左ハンドル仕様)も多く走っている。冬に備えて4WD車が人気のようである。
中央駅前のレーニン像
ウラジオストク駅前にそびえるレーニン像。ソ連時代はどの街にも中心部にレーニン像があったが,ソ連崩壊時に多くのレーニン像が撤去されたらしい。このウラジオストクには残っているが,今になると何となくレーニンも淋しげに映る。レーニン,スターリン,偉大な指導者は今は何処に・・・。 
 
ウラジオストク上陸の記念モニュメント
1860年にウラジオストクにこの街の創設者が上陸し,国境警備施設を開設してから125周年目を記念して1985年に作られたモニュメント。当時,帆船で到着し上陸したことから,モニュメントは帆の形をしている。1860年当時本邦では1853にペリーが黒船でやって来て,翌年の1854年に開国した直後のこと。 
現役で活躍中のロシア海軍の軍艦
金角湾に停泊中の海軍太平洋艦隊指令本部所属の軍艦。この他,退役した軍艦や原子力らしき潜水艦もこの港にはゴロゴロあります。ポケット線量計を持って行くのを忘れましたが,放射線を少々被爆したかも知れません。これもこの時期患っていた甲状腺機能亢進症の為の放射線治療と思えば良いのです。 
 
中央広場,革命戦士像と沿海州州庁舎
軍事パレードやその他多目的に使えるよう作られた中央広場。旧共産圏の国々にはどの街にもこのような広場があったのです。この時期は来月(9月)から始まる新学期をひかえ,この広場ではノートや鉛筆等の学用品売り場が出来ていました。写真右端の革命戦士像は1917年の社会主義革命と1922年の内戦を戦い抜いたことを記念して建てられています。革命戦士像奥の白い高層ビルは沿海州の州庁舎。
要塞博物館で正午を知らせる空砲
1860年に国境警備施設が出来た後,1862年に英国の船が進入してきたことを受けて要塞が築かれ,ウラジオストクは日露戦争の前には要塞の街となった。現在は博物館として保存されており,毎日正午には写真のように空砲を鳴らして時刻を街に伝える。ウラジオストクの他,同じ港街であるサンクトペテルブルグとカリニングラードでも同様,12時に空砲で時刻を知らせている。空砲はものすごい音,熱と振動でした。

モスクワ行きシベリア鉄道ロシア号の出発風景と潜水艦博物館

 
 ウラジオストクはシベリア鉄道の終着駅,始発駅である。総長9288kmのシベリア鉄道は世界最長の鉄道路線である。ウラジオストクを出発した「ロシア号」は,ハバロフスク,イルクーツク,オムスク等の都市を経由し,7泊8日でモスクワに到着する。体力勝負がシベリア鉄道です。ちなみにこの間,入浴は出来ません。
 全ての区間で電化されており,先頭の電車が客車をけん引する方式で走行する。その出発はレールのつなぎ目を車輪が通過する音のみ残し,静かにゆっくり発車して行く。ウラジオストク駅のホームで流れる2拍子かつ短調のロシア独特の音楽が何とも感慨深い旅情をかもし出す。
 
 一方,潜水艦は旧ソ連が誇る一連の軍事産業の産物で,第2次世界大戦以前に活躍したものを陸にあげて博物館として開放しており,この潜水艦の内部を見学することができる。
 不凍港であるウラジオストクの金角湾には,この他,海上には現役の艦艇や,潜水艦,退役した原子力潜水艦?などが怪しくも所狭しと浮いている。この金角湾は軍港に加えて,商港であり漁港でもあり,多目的な港として重要な役割を担っている。
 
ウラジオストク中央駅
世界最長の鉄道路線,シベリア横断鉄道の終着駅であり,始発駅であるウラジオストク中央駅の駅舎。1912年の建物。外装,内装ともにアースカラー調のうすいクリーム色で装飾され,落ち着いた独特の雰囲気をかもしだしている。ここがモスクワに向けての約1週間を要する壮大な旅がスタートする最初の舞台である。
ウラジオストク出発列車の電光掲示板
1の「МОСКВА,17:35」は17:35発モスクワ行きシベリア横断鉄道のロシア号,。その下,5の20:00発の列車,「ХАБАРОВСК」はハバロフスク行きのオケアン号。少々違和感がありますが,キリル文字も規則性があり,慣れると発音できます。この日は,ウラジオストク17:35発のモスクワ行きロシア号の見送りを体験致します。
 
 
シベリア鉄道「ロシア号」
ウラジオストク駅のプラットホームには他の列車とは違った装いの列車が停車中。多分短距離の列車より新しく造られたものと思われます。これが名高きシベリア横断鉄道のモスクワ行き「ロシア号」。もちろん全席指定,全席寝台です。出発30分前。大きな荷物を持った人々が乗り込んでいきます。
「ロシア号」のネームプレート
「РОССИЯ」はロシアと読み,つまりロシア号,「МОСКВА−ВЛАДИВОСТОК」はモスクワとウラジオストク間を走行する列車であることを意味する。この列車で乗り換えなしで約1週間かけてモスクワまで行ける。ちなみに,モスクワ行きロシア号は隔日の運行で,毎日出発するわけではありません。
 
 
「ロシア号」の先頭列車
この先頭電車1両でこの日は17両つながれた客車や荷物車等をけん引する。全18両編成は東海道新幹線より長い。私の推測であるが,この先頭車は鉄道の管理区域ごとにとり替えられるのであろう。ちなみに,ウラジオストク周辺は極東鉄道により管理されている。只今発車15分前,運転席は出発の準備が出来ています。
「ロシア号」発車4分前の光景
ホームの時計は17:31を示している。乗車と同時に眠る人がいれば,見送りの人々とホームで別れを惜しむ人あり。列車はこの後,何の前触れもなく定刻の17:35に独特の短調の音楽と共にゆっくり出発。出発後,淡々と家路を急ぐ見送りの人々あり,涙で周りの人に抱きかかえられながら帰る人あり。人間模様も見ました。
 
シベリア鉄道建設記念碑
ウラジオストクからモスクワまでのシベリア横断鉄道の総長が9288kmであることが示されている記念碑です。ここ最近新しく造りかえられたらしい。写真では数字が読み取りにくいかもしれませんが,碑の土台をよくご覧ください。写真奥は近距離を走る客車。
シベリア鉄道建設記念碑と駅舎
同じく記念碑。こちらのほうが数字が見易いかもしれません。9288kmと示されています。奥は,古いSLが展示されています。E型機関車でした。広軌に加え駆動輪5×2の10輪と大陸仕様。更にその奥は,クリーム色に装飾されたウラジオストク駅の駅舎です。
 
潜水艦博物館(エントランス)
第2次世界大戦に勝利した当時のソ連海軍をたたえ,20年後の1965年に博物館として潜水艦は陸に上がった。エントランスの左側に少々見にくいですが「1941」,右側に「1945」と記されている。1941〜1945年にかけて戦ったことを意味している。
潜水艦博物館全景(その1)
陸に上がったS-56型潜水艦。この中が博物館。濃緑色に塗り替えられてきれいな装いとなっている。この潜水艦の全長は78メートル,乗船定員45人。第2次世界大戦中に活躍したこの潜水艦,当時,一体どこからどこまでの海を潜航したのか・・・。
 
潜水艦博物館全景(その2)
内部は資料展示室と操舵室の2つに分かれている。そのうちの資料展示室は潜水艦の内部を大改装した広いフラットな展示室スペースに,昔のソ連海軍関連の資料が展示されている。
潜水艦のハッチ
この狭いハッチを慎重に通過すると,いよいよ未改装の潜水艦内部の操舵室へ。操舵室には計器類やバルブ類に加えて,魚雷発射室もあり,リアルな人形が魚雷を発射している。
 
 
潜水艦の潜望鏡
努力したのですが暗くて写りが悪いことはご容赦ください。この潜望鏡で外界の様子をうかがいながら潜航する。潜水艦にはフロントガラスはありません。この潜望鏡からの情報が潜航時には全てです。
潜水艦のバルブや計器類
操舵室には無数のバルブや計器類が並んでいる。特に,写真には写っていないが,バルブ類は壁全面にびっしりある。このうちダミーのバルブもあるのでしょうか。疑ってかかるのはやめましょう。 
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路面電車の風景とシベリア鉄道に乗ってウスリースクへ

 
 ウラジオストクには,トラムと呼ばれる路面電車が市内を縦横に走っており,市民の移動には欠かせない。この他,更に郊外に向けては架線から電気をひいて走るトローリーバスも走る。5ルーブル(2003年8月のレートで20円強)で乗車できる。トラムは線路も車両も老朽化しており,写真で見るとさびれた感があるが,古いことは良いことで,シャビーでみすぼらしい感じは全くなかった。また,これが古い街にマッチしており,たいそう趣がある。

 何とか今回の渡航でシベリア鉄道に少しでも長い間乗車したかった。かといって,車中で1泊してハバロフスクまで行っても,時間の都合で航空機を利用してウラジオストクまで帰らねばならず,折中案として,2時間あまりのウスリースクまでの乗車とし,帰りは車を用いてウラジオストクに帰ってきた。利用したのは,ウラジオストク発13時16分発のハバロフスク方面行きの全車両コンパートメント2段ベッド仕様の寝台列車。終点はサハリンの対岸の街,ソベーツカヤガバニ。ウラジオストクを出発した後,1日と18時間あまりかけて走る列車のようだ。
 
市内を走るトラム(その1)
美しい街並み,スヴェトランスカヤ通りを走るトラム。トラムは昼も夜も頻繁に行き来する。朝夕はかなりの乗車率だが,昼間は比較的すいている。基本的に自動車は軌道敷内通行可のようで,渋滞すると,トラムも渋滞していた。
市内を走るトラム(その2)
トラムはのデザインは1台1台ずつ異なる。先の写真は黄色と青,こちらは白と青のツートン。いったい何年この街をこの車両は走っているのであろうかと思うほど,年季が入っている。1両編成のほか,2両編成のトラムも時たま見かける。
 
市内を走るトラム(その3)
トラムはワンマン運転でなく,運転手(何故か女性が多い)と車掌さん(こちらも女性だが若い)のコンビで運行され,車掌は乗車した客から5ルーブルを徴収,キップを販売する。トラム前方の運転席との出入り口に立っている女性が車掌さん。車掌はトラムが止まると,降りて車道の車を止め,乗客を安全な,歩道まで導く役割も担っており,多忙である。
市内を走るトラム(その4)
トラムのイス。木製でスポンジは無い。いわゆる中国で言う硬座。年季は外観だけでなく,車両内部もかなり入っている。古いものを大切にし,古いのものは良い事だと思う心は美しい。新しい物好きはすぐにモノを飽きっぽくする部分もありまして,この年季を多くの日本人は見習うべきであると思う。また,古くてもボロボロでないのがこれまたすばらしい。
 
シベリア鉄道に乗車
ウラジオストクからウスリースクまで,食料を買い込んで,しばしのシベリア鉄道の旅に出かけました。この風景はウスリースク駅のホームに降り立ったとき撮影。乗客がウスリースク駅からこの列車に乗り込む風景で,車掌がキップを確認している様子。シベリア鉄道には1両に各1名,車掌が乗車する。
シベリア鉄道乗車券
シベリア鉄道乗車券。コンピューター化されているのかバーコードまで入っています。フォーカスが少々悪いのでしょうか,鮮明に見えないことをご容赦ください。確か,キップには名前まで書いてあったように記憶しています。乗車時に車掌さんがこのキップの左上の金色マークの部分に切り込みを入れてくれました。
 
シベリア鉄道の客車風景(廊下)
廊下が車両の片側に1本。この廊下の右側は窓,左側は4人部屋コンパートメント,寝台車である。走行する音の叙情が写真では伝わらないのが残念ですが,何とも哀愁が漂う車両でありました。思わず大滝詠一のさらばシベリア鉄道を口ずさんでいました。
シベリア鉄道の客車風景(キャビン)
4名部屋の片側,このスペースに上下各1名。思ったより広い。日本の狭軌仕様の寝台特急は足がのばせないくらいに狭くて,しかも走行の揺れで眠れませんが,大陸仕様広軌の寝台列車はゆっくり足がのばせ,相当快適でありまして,うとうとしてしまいました。
 
 
シベリア鉄道からの風景(その1)
ウラジオストクを出発し,しばらくアムール湾の海岸線沿いを走ると市街地を抜け,別荘地や放牧地に出ます。ロシアでも別荘が最近は増えてきたそうです。更に走ると未開墾の大地へ。大平原,雑木林の中を抜けて,シベリア鉄道は突き進みます。極東は亜寒帯気候と思ったら,木々は落葉広葉樹ばかりなのに気付きます。この辺は案外温帯気候なのでしょう。
シベリア鉄道からの風景(その2)
川が迫ってきました。堤防も護岸工事もない自然の川です。夏なのでたっぷりの水が流れていますが,冬には凍てつくはずです。しばらくすると,何も無かった大地に農家の小屋らしき建物が見え始め,やがて街に列車は入って行きます。目的地のウスリースク到着です。ということで,2時間あまりのシベリア鉄道乗車は終りました。次は1晩くらい乗ってみたいものです。
 
ウスリースク市内風景(革命兵士像)
ウスリースクは現在の人口が約4万人,1898年にウラジオストクの台所を支える農耕都市として入植し,街ができたとされる。この街にも革命兵士像が中央広場にあります。兵士像の後ろの新しい建物は,この都市の市役所とのこと。屋上にはロシア国旗がはためいています。
ウスリースク市内風景(中央広場)
共産圏の街にお決まりの中央広場。人口4万人の街にしては立派な広場です。写真中央から左によった所に革命兵士像が何本もの国旗掲揚ポールとともにあります。ソ連崩壊後,このような広場の本来の目的は無くなったと思われますが,現在もそのまま残されています。
 
ウスリースク市内風景(教会)
ロシアの宗教はカトリックでもプロテスタントでもないギリシャ正教。社会主義時代はいかなる宗教も固く禁止されていた為,この教会も壊されたそうです。近年復元し建築されました。この様な話を聞くと感慨深いものです。社会主義革命とは一体何だったのか??
ウスリースク市内風景(駅舎)
降り立ったウスリース駅の駅舎です。先に説明したとおり,この街が出来て間もない頃の建物です。築後約100年はこの国では比較的新しい部類の建物です。これでウスリースク観光は終了です。この後,チャーターしたミニバスでウラジオストクに陸路2時間かけて戻りました。
 
 
 最後までご覧頂きありがとうございました。これでロシアのページはひとまず終わりとなります。次の渡航も予定しますので,そのときの更新までご期待の上,お待ちください。
 
 ロシア総括として,ロシアの人々は人なつっこく,優しく,親切で,しかも親日家ばかり。料理はおいしく,日本人の口にとても合います。観光化されていないので,ふっかけもありません。イデオロギーの違いに起因する75年余の遠回りがありましたが,人々は活き活き頑張っています。大国ロシアの再生,復活を陰ながら応援しています。皆さまにも是非,近い将来ロシアをご旅行されることをおすすめします。
 
(2003年記)
 
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